聖武天皇がしたこと

2024年6月17日月曜日

6年生 教育活動

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6月17日(月)。月曜日は何かと忙しく、この日も午後になってやっと10分間だけ授業を見に行くことができました。行ったのは6年教室。社会科の時間に年表などの資料を使い、聖武天皇がどのようにして国を治めようとしたのかを考えていました。

資料をもとに、「都(平城京)では病気が流行し、都を支える地方でも人々のくらしは厳しく、なかなか政治が安定しなかった。そこで、天皇は仏教の力で社会の不安をしずめ、国を治めようとして全国各地に国分寺をつくらせた」とまとめていました。

このまとめ方で間違ってはいません。ただそのほかの考え方もしてほしいと思い、授業が終わってから近くの子に「聖武天皇が都祁に来たのは知ってる?」と聞いてみました。すると、首を横に振りました。聖武天皇が行幸の途中で都祁に立ち寄ったことは、都祁に長年住んでいる者でも知らない人がいるので無理はありません。

実は「続日本紀」に、「天平十二年十月壬午 是の日 山邊郡竹谿村堀越頓宮に到る」とあります。「天平十二年」は西暦740年、「山邊郡」は都祁が奈良市と合併するまでの「山辺郡」、「竹谿(つげ)村」は同じく合併するまで存在していた「都祁村」のこと。天皇は都祁に来る3日前に臣下を集め、「思うところがあって、しばらく関の東へ往こうと思う。(このような一大事に)『そんなときではない』と言われてもやめられない。」と発したと言います。「関の東」は伊賀の辺り、「一大事」はこの年(740年)に九州で起きた「藤原広嗣の乱」のことです。関の東に行ったのは、危険を恐れて身を隠したのではなく、平城京から伊賀を抜けて伊勢に行き、国の平安を祈るためだと考えられます。そう考えると、全国に国分寺を作らせただけでなく、「各地を巡礼(行幸)しながら皆と祈り、その姿を知らしめることで国を治めようとした」という考えが出てきてもいいと思いました。都祁水分神社の鳥居の近くが行幸の立ち寄り地と考えられるので、そこには「堀越頓宮」の石碑が立っています。


このブログでは、都祁󠄀小学校の学校の様子をお送りします。

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